「第11回JFC作曲賞」選考過程について
審査員・川島素晴
まず、23作品の応募作について、全てに目を通し、簡単なコメントをまとめた。以下、応募受付順に(作曲者名は伏せ、題名と編成を表示した上で)記述していくが、審査講評というよりも、審査員自身の心情等も折り込まれているメモに過ぎないことをご容赦願いたい。また、これらはあくまでも審査員個人の感想であり、全ての作品は、作品としての主張を持ち、一定の水準を示す充実した内容であったことを前置きしておきたい。(作曲者名は、最後に残った6作品について、最後のところに記載している。)
なお、今回の(極めて独自なものと自負する)応募規定については、こちらを参照されたい。
1) コンストラクションIV [Cl(A), Tuba, Vn, Vc, Cond] 10’
4つの楽器がそれぞれの楽器による名曲を断片的に奏しているが、指揮者は《第9》を演奏したい(という設定)。やがて《第9》が完成するも、結局奏者たちは自分の楽器に特化したそれぞれの名曲に戻る、といった仕立ての作品。引用箇所をあえて(原曲譜から)切り貼りしたスコアは興味深く、作品としての手際も良い。実際の上演をすれば面白い結果になるであろうが、あまりにも引用部分の割合が多く、もう少しオリジナルな書法による展開が見たかった。また、こういったアイデアの場合に、あまりにもプロットが明解でシンプルな場合は、ここでの音楽体験がプロットに回収されてしまう。プロットをある程度まで排除する(あるいは曖昧なものにする)か、プロットを明確にするならもっとオリジナル書法部分を聴かせるか、どちらかの方向でのブラッシュアップが望まれる。今回、いわゆる引用を主体とする作品が複数提出された。その中では最も演奏映えする秀作だが、ここに述べた問題が気になってしまう。
2) エピソードⅢ 〜チューバのための幻想曲 [Cl(E♭/B♭), Sax(S/A), Tuba, Vn, Vc] 6’
チューバをソロに設定しているだけあり、チューバのパートにおける旋律的な魅力に特徴がある作品。(ただし、バスクラリネットをソロとする原曲があるようだ。それを知らなければ感じさせない、チューバでの効果も高いと思える内容である。)しかし、とりわけ弦楽器の書法にやや無理があり、バランス的な問題が生じている。また、演奏映えはする内容だと思われるし、ありそうでない感じの一部の楽想にオリジナリティを感じないでもないが、全体の様式的には吹奏楽作品に典型的によく見られるものであり、本賞の主旨からは逸れたものと言える。
3) Prajnanam brahman [Vn, Sax(A/T/Br), Cl(B♭/E♭), Tuba, Vc, Gt] 9’30”
非常に複雑なスコアリングを実践しており、実演されたなら音響としても興味深いだろう。しかし、その実演が意図通りに実現するかどうかが問題となる。本作は、本賞独自の試みとして行った、事前の仮提出がなされており、各楽器の演奏上の問題点を中心に、審査員自らが膨大な指摘を行った。作曲者はそれをSNSに公開していたので、ここでもそのことに触れて問題ないであろう。作曲者はファーニホウ等の記譜をリサーチしているようで、審査員からのとある演奏困難箇所の指摘について、ファーニホウの楽譜の断片を示して「できるのでは?」といった趣旨の投稿をしていた。それに対してなぜファーニホウの譜面が可能なのに、作曲者の譜面では不可能と言えるのかを公開の場で説明したりもした。そのような場で作曲者は「審査員からの膨大な指摘の全てをクリアする」と宣言もしていた。しかし実際の本提出内容は、残念ながらまだ不完全であると言える。本賞の趣旨としては提出内容に仮に不可能な箇所が散見されていても、協働過程での修正が可能なのだからそれを理由に選出しない決断には至らない。しかし本作が他の応募作品に比して唯一際立つ点は、その過剰な記譜に立ち現れているのであり、それが実行不可能となって情報が削減されてしまうとすれば、本末転倒である。この作曲者は、今後はなるべく実演経験を積み、楽器奏法について、より身体的、物理的な条件に基づく理解を深める必要があると思える。
4) 線状降水帯 [Cl(B♭), Sax(A), Tuba, E.Gt, Vn, Vc] 8’
今回の編成規定の楽器全てを用いた編成は、実は、バランス良く作曲することが極めて困難である。一つ前の候補作3)は、そういったバランスを云々するタイプの曲ではないので、かえってそれを感じさせないし、あるいは後述する20)のように楽器編成が何であるかが音楽的な内容に影響しない(そしてむしろアンバランスであることが面白さにつながる)作品もあるが、本作の場合、書法がいたって「普通」(これは否定的な意味ではない)であるがために、そのアンバランスと感じさせる問題は、ダイレクトに評価につながってしまう。ここでは、ギターではなくエレキギターを選んでいることにより、その問題を解消することに半ば成功しているし、部分的には聴いてみたくなるような興味深いサウンドも散見される。しかしやはり、「この編成である必然」を全面的に主張できたかというと、難しさを感じた。仮にこの編成全てを使うことが条件の委嘱であったなら、果敢にその可能性に挑むべきだが、今回は全てを使う必要は無かったわけで、逆に、全てを選ぶ以上、それが「その楽曲を実現するための最適解」であるとの確信とともに筆を進めてもらいたかった。
5) 同意と共感への七つの断章 [Gt, 2 Assistants] 11’
貧者と富者を象徴する2人の演者を伴うギター独奏曲で、7つの断片からなる。ギターの記譜が独特で、低音部譜表を伴う実音記譜となっているが、そのことへの注釈がなく、一瞬戸惑う。また、作曲者本人もそのことによる錯誤があるのではないかと思われる箇所も散見される。6番目の断片では独自な記譜により打楽器的奏法を駆使するなど、興味深い点もあるのだが(もしもこのアイデアが全曲にわたって徹底されていたなら更に興味深かった)、大半の部分に於いては、ギター独奏のための作品として目を引くアイデアはさほど見当たらない。ということは、演者の設定こそがここでの作品性として説得力につながるはず。しかし、ここでの「貧富の差」という設定が、イージーにも見えてしまう。この作曲者が演奏に参加したことを知っている某現代作品にも、7つの寓意を示すものがあるが、どうしても、あの強烈な内容を超える(とまではいかないにせよ、作者独自の)世界観を求めてしまう。
6) ノック [Cl(B♭), Vn, Vc] 10’30”
このトリオで可能なあらゆる奏法を盛り込み、極めて洗練された筆致で秀逸な作品世界を実現している。しかし、全体的に既視感のある特殊奏法がカタログ的に展開するこの方向性は、今の作曲コンクールの現場ではかえって平準的な存在に埋没しがちである。その中にあって、いかに独自性を主張できるのか。この作品でなければ聴こえてこない世界はあるのか・・・部分的ではあるが、その萌芽は見え隠れする。そこを肯定的かつ積極的に評価するなら、このような作品が入選作として上演される可能性はあるかもしれない。恐らくこの作品(あるいはこの作曲家による他の作品)は、ここで入選しなくとも、他の機会に、評価を得る機会も巡ってくるであろう。しかし、今回ブッキングしている優秀な演奏者によるリアリゼーション(及び本番までのブラッシュアップ過程)で、この作品がそういった独自性を響かせられるのか、確認してみたい気持ちもある。
7) 不完全ボレロ [Cl(B♭), Sax(S/T), Tuba, Vn, Vc, Performer] 11’30”
12分以内という本賞の規定から、ラヴェル《ボレロ》においてチューバが演奏を始める直前で切る=「不完全」という着想。そこに端を発して、様々な「不完全」が仕掛けられる。チューバは本当に、座っているだけ(そして楽器を構えたら演奏終了)の内容。基本的に、スコアは《ボレロ》を下敷きとして当該パートがそのまま記譜されている。(がそこに様々な「不完全」が仕掛けられる。)アイデアは秀逸で、(コンクールということを度外視するなら)上演してみたい作品の一つではある。とりわけ、前半、ほとんどそのままボレロが(不完全に)奏でられていくだけの退屈な時間は、退屈であるがこそのシュールさ(それは例えばフルクサスの幾つかの演目にも通ずる)が目を引く。しかしながら、これを「作曲賞の本選」という場所で上演することには、さすがの私にも抵抗がある。惜しむらくは、題名から想像する内容が、想像以上のものではない、ということである。その点、《強撚ボレロ》という(ひょっとして意識したかもしれない)審査員自身の作品は、想像通りとはいかない内容になっていると自負しており、これに限らず《ボレロ》を題材とした諸作品を凌駕する存在感には至っていないと思える。
8) オルツバウⅢ [Vc, 声] 6’
チェロパートが全面的に有名曲の切り貼りでできているという点は1)と近似的であるが、1)でのそれとは異なり、ここでは、色分けされた断片(色分けは奏法の変化と相関する)は、その大半が原曲を認知できない程度に裁断されている。これは、作曲者が音楽教員であり、生徒の練習風景における旋律断片の重なりをサウンドスケープとして日常的に経験していることに由来する。そこに声が感嘆詞により重なり合う。(そしてそれもまた、作曲者の日常に由来する。)当初、湯浅譲二「テレフォノパシー」を想起したが、視覚的に配列されたスコアをどのように解釈するかも含めて、様々な演奏解釈が可能であり、そうした印象を払拭するパフォーマンスは十分に可能だろう。審査員自身が演者として想定されているにも関わらず、その成否が自身の演奏内容によるという難しさがあるが、このような作曲賞を発案してしまったのだから仕方ない、腹を括るしかなかろう。一方で、もう少し、チェロパートにもイーヴンな表現性を要求しても良いのではないかとの気持ちも(こちらはあくまでも審査員として)生まれた。
9) クラリネットとヴァイオリンと顔面のための [Cl(B♭), Vc, 顔面] 7’
審査員には《顔の音楽》(2020)という、顔を動かすだけの作品がある。その「顔面パート」を含む室内楽。《顔の音楽》は、顔を動かすだけで、音を伴わない。この作品は、いわば《顔の音楽》における顔の動きを、両側にいるクラリネットとヴァイオリンによる音が表象するような内容になっている。元の作品には、複数部位の同時「演奏」は含まれていないが、ここではそういった部分があり、よりいっそう顔面パートの難易度が高くなっている。恐らく世界唯一の「顔面奏者」である私としては、これが演奏可能かどうかの判断は極めて重要となる。何しろ、替えがきかないのだから・・・。もちろん、仮に演奏可能だとしても、この作品を入選作にするかどうかについては、また別の問題である。とても重要な問題として、ライヴ演奏で、プロジェクション無しに、この内容が果たして観客に伝わるかどうか。真正面の至近距離からでないと、なかなか伝わらないのではなかろうか。また、音との相関についても、もう少し工夫のしようはあったかもしれない。(ただし、複雑になればなるほど意味はわからなくなるので、ここに書かれた内容は、適度なバランスだとも言える。)
10) ウェイヴィング・エア [Vla, Vc] 11’
2つの弦楽器を通じて、様々な奏法的探究がなされ、極めて精緻な書法が展開している。しかし、「沿岸の自然環境と、民謡や地踊りを主題とし、自然環境と人間文化が共生する新たな地域芸術を描くことを意図、風化しつつある地域遺産と芸術の発展的共生を目指す」とのコメントがあり、様々な思いが去来する。果たして音楽に、そのような力はあるのだろうか。このような筆力のある作曲家が、もっと、ここで展開している弦楽器の音楽的可能性に集中して耳を傾けたなら、どのような音楽が立ち現れるのであろうか。もちろん、ここで素材とされる民謡の用いられ方なども、とても洗練されているし、あらゆる瞬間が音楽的で、充実した時間を紡いでいる。でもそれが全て、前述のような「意図」に寄与するものとして構想されているのだとしたら、それは本質的に、土臭く民謡を下敷きにした(ありがちな)編曲作品などと、そう遠くない内実だと言える(そしてそうした作品の方が、一般的な地域芸術としての訴求力が高いのではなかろうか)。楽器奏法の一部にも独自な探究が見られるが、そのような効果も自然環境との関係(?)に向けられているのだと思うと、惜しい気持ちになる。
11) 官能、或いはM.R.氏の墓 [Vn, Performer] 8’
後ろを向いたヴァイオリン奏者は、その背中に、もう一つのヴァイオリンを背負っている。パフォーマーはその、ヴァイオリン奏者が背負うヴァイオリンを演奏する。M.R.とはマン・レイであり、彼の《アングルのヴァイオリン》からインスパイアされている。ヴァイオリンは、ヴァイオリニスト側(後ろを向いたまま演奏される)も、パフォーマー側(その大半が特殊奏法によっている)も、極めて制限された演奏内容となっているが、奏法の選択や、時間軸上の配列、また、前後のヴァイオリン同士の関係など、入念な構築がなされている。ただし、とりわけ背負われた方のヴァイオリンについては、演奏効果によって成否を分ける印象がある。(固定の方法についてはスコアに指示があるが、実際に演奏の間、その状態をキープできるのか、やや疑問も残る。)うまくいくならとても美しく、示唆に富んだ時間が現出するであろう。しかし、下手をすると、鑑賞に耐えるものにならない可能性すらある。リスキーな選択だが、やり甲斐はある。
12) Orbita della vita 〜生命軌道〜 [Cl(B♭/A/E♭/Bass), Sax(S/T/A), Tuba, Vn/Vla, Vc] 10’
ギターを除くものの、それ以外は今回規定の編成の全ての持ち替え可能性を駆使し、実にヴィヴィッドな音楽を引き出している。とりわけ、前半の快活な部分は、今回の応募作品の中でも傑出した音感を示しており、おおむね、この難しい編成をうまく処理している。しかしながら、何箇所か、楽器の技術的な問題点が見られた上に、アンサンブル書法としても、恐らくこの作曲家がまだ経験を多くもっていないことに起因するであろう問題が見られた。以上の点は、それこそ今回の作曲賞では協働過程を通じて改善の余地はあるかもしれない。しかし、あまり感心できなかったのは、後半の展開である。緩徐的な部分においてもなお、この作曲家が持つ豊かな音感を途切れることなく発揮できたなら、この作品の説得力はさらに増したであろうが、そのような部分で、どうしても既視感を拭いきれなかったのが悔やまれる。
13) 鎖苦速風音族 [Sax(T/Br), 6連ホーン] 7’
暴走族のコールを採譜するという大胆な発想。そしてこの作品のために、暴走族が用いる6連ホーン(警音器)をMIDI制御した演奏システムを作り、それとサックスによるデュオ作品に仕立てるという、見たことのない設定。ナンバリングされた音型パターンと、その演奏過程を記号の並列で示す独自な記譜法。sempre ffffで書かれ、速度などもかなり無茶な要求がなされているサックスパート。そしてそういった過激な音響に徹し、耳を休める間もなく力業で畳みかけていく強烈な推進力。もう、あらゆる観点で規格外な作品である。「こういう作品をこそ、本賞は待ち望んでいたのだ!」・・・とは思う。しかし一方で、この作品が素材とする暴走族のコール、そしてそれに基づく破壊的な爆音の音楽を想像するに際し、客観的な審査員という立場を一旦忘れ、一個人として純粋にこの音楽に向き合ったとしたら、果たしてこれを愛せるのかどうか、わからないでいる。圧倒的な存在感を放つことは間違いない。しかし、単に音圧が高くやかましいというだけならばともかく、それが暴走族のコールを素材としているという一点に、引っかかっている。そういった具体的な属性を持った素材は、どうしても、その属性を取り払った聴取は不可能であるわけで・・・。(少なくともこの音楽は、コンプライアンスの厳しい放送局では流せないだろうな、とも。)
14) AX(アナログ トランスフォーメーション)〜2人の身体と、その間に配置された楽団のための [Cl(Bass/E♭), Sax(S/Br), Vn/Vla, Vc, 2 Performers] 9’30”
指揮者としてのパフォーマー1が、演奏者に様々なニュアンスを指示する。それは演奏者を介在してパフォーマー2に伝わり、パフォーマー2は、そこでの音響の推移を身体によって表そうとする。このことが、「アナログ トランスフォーメーション」を意味している。アイデアは興味深い。しかしスコアを見てみると、まず、全曲を通じて一定のテンポによる拍は設定されているが、一般的な意味での拍子を欠いた譜面になっており、指揮者はいわゆる拍子を示す指揮のアクションを拒絶される。このような延々と「1拍子」が続く設定の中で、果たして、指揮的な所作による音楽的表情を豊かに描き出せるだろうか。音楽に必然的に内在する表情を引き出すのであれば、このような記譜は真逆の態度に思え、そのような記譜を採用する必然性が思い当たらない。また、それを受けてパフォーマー2(作曲者自身が担当することが想定されている)が身体で音響を表すとのことだが、それはいわゆる「ダンス」と、本質的に何が違うのだろうか。ともすれば、実際に見てみれば、それが普通のダンス等とは全く異なる何かであると納得できるのかもしれない。打点を先行して示す「指揮」に対し、発音を聴いて身体的な反応を示す「ダンス」は、本質的に異なるアクションであるが、それが並列することにより、若干の時差が生じることになる。そのこと自体は興味深い。でも、一定のテンポで継続する音楽と、延々と続く2人のパフォーマーの微妙なずれの世界を見せられ続けていて、果たして鑑賞する意欲は持続するであろうか?(井上道義氏と田中泯氏によるリアリゼーションなら、確実に見続けられるかもしれないが・・・。)
15) 戦争中、お父さんの村で、ニウェンホリピがあった [Sax(S/A), 音源再生] 12’
インストラクションと添付資料による譜面構成で、実際の演奏内容は、音源をもとに、作曲者と演奏者が協働しながら確定する。アイヌ民族の歴史について語られた音源を素材とし、その採譜を基に演奏される第1部、ネッティ相撲の四股をしながらライトで照らされた土俵状(円形)の場を回りつつ、採譜されたものの断片を演奏する第2部、そして元の声を暗闇で聴く第3部からなる。戦争中のニウェンホリピ(大地を踏みつける儀式)の話からインスパイアされ、作曲者が普段、相撲の要素を採り入れた創作を行う団体に所属していることもあって、それを四股と結びつけた作品。「発話の録音素材から演奏を作り上げる」ことそれ自体は目新しいことではないが、アイヌの言葉であること、戦争中の話であることなど、多分に社会性を帯びた内容は、深く刺さるものである。一点、ニウェンホリピから四股を彷彿とさせられそれらを結びつける、ということについては、これが相撲と音楽の関係を考察する団体のメンバーの作品である点を前提にしていないと、その整合性(この題材でなぜ四股を用い、円周を巡る必要があるのか)に疑問が湧いてくる。そして実際の上演に際して悩ましいのは、照明の設定、操作がかなり作品の重要な部分を占めているという点である。今回の上演会場は規定に明記されている、ミューザ川崎の市民交流室であるが、この場所についてのリサーチを行うなら、ピンスポット2台のみの簡易な設備しか存在しない手狭な会場であることが判明する。意図通りの照明やビジュアルイメージがほとんど実現しないことは明らかなのだが、本作の場合、これが実現しないことは致命的な弊害になってしまうように見受ける。もちろん、照明が意図通り実現しないとしても、変更や修正を加えて上演することはできるだろう。しかし、敢えて不適切な場所で上演するべきだろうか。場所を選ぶ作品を選曲する場合は、当然、適切な場所についても考慮するのが上演者の責務であり、審査ということを超えて、今回の選曲候補としては、これを選ぶことは避けるべきなのではないか、というのが率直な見解となる。(今回の会場を想定した、妥協とは思えないプランが明記されていたなら、そのような考えは払拭されたかもしれないが。)
16) 失業 – ルイ・アンドリーセン讃 [E.Gt, Sax(T), Tuba, Vc] 8’30”
編成、題材、音感、構造など、あらゆる点で「アンドリーセン讃」であることが頷ける内容だが、そこに「音楽家の失業」にまつわるシアトリカルな仕立てが盛り込まれる。今回の応募作を幾つかのタイプに分類するとしたら、このように、あまり特殊奏法などに頼らず、音そのものの力でアクティヴに推進する方向の書法、というものも一つのタイプにカテゴライズできる程度に存在している。別の作品にて既述のように、そうした作品では、この難しい編成のバランスをどう処理するかが問われるが、本作ではその問題を感じさせない。また、全体的にハイセンスな筆致に貫かれ、このカテゴリーの応募作品としては、頭ひとつ抜けているように見えるし、そこに(実体験に基づく)シニカルな視点が介在することで、ユニークな存在感も具えている。一つ苦言を呈すると、全応募作中この作品のみ、演奏所用時間が明記されていなかった。シアトリカルな仕立ての部分で不確定要素があるので明記できなかったのかもしれないが、やはり何らか、記載すべきだっただろう。(仕方ないので審査員自らが計算、計測した。)浄書ソフトで作られたスコアに、部分的にインストラクションが手書き入力されていることなどを鑑みると、間際になって計測する時間もないまま提出したのかもしれない。(そういうことしていると、また失業・・・以下略。)
17) 誰かさんの産声 [8台の手作りスプリングドラム] 12’
今回の編成規定では、楽器奏者6名は、受け持ち楽器以外の簡易楽器などの演奏も可、となっている。また、審査員、ならびに作曲者自身も演奏に参加可能となっている。つまりフル編成は8名ということになるが、そのような作品はこの1曲だった。また、全員が本来の受け持ち楽器を持たず、ひたすら創作楽器を演奏するという極端な設定も、この作品のみである。与えられた条件の、考えられ得る最大限の極北的拡大解釈である。しかもスコアは全編、インストラクションのみにより構成され、いわゆる五線譜はおろか、リズム譜すら存在しない。ところが、そうであるにも関わらず、「完璧な」ノーテーションと思える記譜内容であり、写真、動画へのリンク等も駆使して作品の再現性に問題がない状態を実現している。最大の問題は、ここで指定されている大きなスプリングドラムによって、果たして想定されている発音を全員が習得できるのかどうか、であるが、それを果たせないことすら音楽的な意図として含み込まれているため、そのようなリスクが作品性を阻害しない。極めて繊細な音響を前提にしているが、会場の手狭さも手伝って、ここでの音楽体験は際立ったものになるに違いない。(ただし、賛否両論に晒されるタイプの作品であることも間違いないし、多分に、聴衆の集中力に左右されてしまうだろう。)
18) プレグナンツ [Vn, Vla, Vc, Cond] 6’30”
作曲者自身が演奏に参加可能との設定は、私が実行委員を務めた2013年のJFC作曲賞における「自作自演」を含めるという規定の名残であるが、今回の応募作品中、通常の楽器演奏での参加表明(ここで作曲者はヴィオラパートを演奏予定)をしたのはこの作品のみである。この作曲者は、これまでにも弦楽器のハーモニクスの重弦奏法について研究を重ねている。とりわけ、二つの異なる運指による人工ハーモニクスの重弦なども全てカタログ化したそのリストは興味深い。しかし、それを「よく見受けられる現代音楽のスタイル」に落とし込んだとき、その奏法の不安定さゆえに、音楽としては不完全な状態を余儀なくされるだけで、仮にうまくできたにせよ、その効果は限定的だ。実は事前の仮提出でそのことを指摘したところ、本提出では、見事に「化けた」内容を提出してこられた。最初スコアを一瞥したとき、「あれ、カタログしかないのかな?」と見紛うほどに、今回のスコアは、ただ淡々と74個のハーモニクスを含む重弦が羅列されているだけの楽譜になっている。それらを、3人の奏者が、それぞれの時間感覚で自由に(ただし同時に発音することはできない)演奏していくというものだ。しかし、こうしてみてはじめて、この奏法に特化することの意義が生じる。高難度な重弦を達成しても、複雑なアンサンブルの中では全く埋没してしまう。これなら、演奏者がそれぞれに発音そのものに向き合う姿にじっくり聴き入ることができる。また、指揮者の存在もユニークで、ここでは拍節を示すのではなく、1/4音ずらした楽器への持ち替えの指示など、音響的な状態の変質を自由に(具体的なタイミングなどは全く不確定)行うというものだ。(このような指揮者の存在は、この作品の第一印象を「フェルドマン的」と思わせることを回避させることに成功している。)純粋に「聴いてみたい」と思える作品に仕上がったと思う。
19) Consciousness Ⅱ [Sax(A), Electronics] 5’30”
サクソフォン独奏とライヴエレクトロニクスにより、人間の意識の問題に切り込む作品。エフェクトの記譜については、かなり詳細に、第三者による再現性にも支障ない程度に記譜されており、また、サクソフォンの音(特殊奏法に頼ることなく通常奏法の範囲に制限している)との関係についても入念に選ばれ、興味深い効果を引き出している。そういった意味では優秀だし完成度も高く、エレクトロニクスを用いたサクソフォンのリサイタルなどで上演するピースとして、レパートリーになり得るかもしれない。しかしながら、「このような」作品というのは、現時点で世の中に無数に存在している。しかも、そのような無数のエレクトロ作品の中に、際立って個性的な存在感を放つ作品も、何曲も存在している。これが作曲賞という場であることを考慮すると、そうやって思い出す「際立った作品」を、更に凌駕するような、何らかこの作品固有の表現、工夫、オリジナリティが見られたなら、という思いが生じてしまう。
20) コピア! [Cond, Vn, Cl(B♭), Sax(T), Gt, Vc, Tuba] 12’
作品上演日に基づいて(予め決められた法則により)4音を決定し、その4音を用いて自由に演奏、その内容を他の楽器が「コピー」する、といったことが次々と指示されていく。4つの音しか使えない状況で、演奏者がいかにして音楽的な可能性を引き出すか、また、それをどのように模倣するのか、極めて興味深い音楽体験が得られるであろう。しかしながら、実際の上演を想定して2つの疑問が生じた。まず、4音を演奏日の日付から抽出するチャートだが、本選演奏会の日程である2022年3月31日はA♭、B♭、E♭、Gという4つの異なる音が得られるから良いのだが、もしもこれが2022年8月10日であれば、A♭とB♭の2音のみになってしまうのではないだろうか。(更に、2032年8月20日であれば、A♭のみとなる。)その場合どうするかということへの言及が見当たらなかったが、音楽の様相は一変してしまうだろう。詳細なインストラクションがなされているようでいて、画竜点睛を欠く、と思わされた点である。もう一つの疑問は、リハーサルに際してはその日の4音によってなされることが想定されているのだが、そのようにすることは演奏者にとってはこの作品を「楽しむ」ことにつながるであろう。しかし果たして観客にとってはどうであろうか。むしろ、本番当日の4音で様々な可能性を実践しておいて、本番はその上で即興的なエッセンスを盛り込む、という練習の方が(あるいは、そのような練習も含ませた方が)、よりよい演奏を引き出せるのではなかろうか。これらの疑問について、前者は、今回の上演(ならびにリハーサル)に於いては全く(ただしリハーサル日程によっては3音になる可能性も否定できない)支障がないし、後者は、協働過程で相談することで解消されるであろうから、結論としては不問となる。なお、今回の応募作における6人の奏者全てを(担当楽器の演奏者として)想定した楽曲のうち、この作品は、むしろそのアンバランスな編成の面白さが活かされるものとなっている。(それにしても、演奏者次第でいかようにもなる作品であり、他の作品とは全く異なる性質の能力が求められている。)
21) ZAREGOTO [Cl(B♭)] 7’
ソロも可能という編成規定なので、無伴奏ソロ作品の応募がもっとあるものと想像していたが、完全に楽器1本のソロは、この作品のみとなった。しかしながら、それだけにハードルは高い。今回は、かなり特殊な編成規定だったために、アンサンブルの編成を少しひねったものにするだけで既視感を解消できるのだが、ソロとなるとそうはいかない。クラリネットの無伴奏作品に、既に多数の名曲があることは言わずもがなである。サブトーンによる冒頭にはじまり、様々な奏法をうまく配分し、「ざれごと」という題名に示される作品の構想を見事にまとめてはいるし、クラリネットという楽器の特性を活かした作品となっている。しかし、いずれも「どこかで聴いたことのある」内容との印象を免れることは難しい。また、部分的に、クラリネットの性能についての誤解が含まれており、無伴奏曲においては、そのような誤解はかなり減点要素になってしまう。今後、実演経験を経て、正確にクラリネットの性能を理解した先に、自分にしか書けないクラリネットの新しい表現を導いてもらいたい。
22) ぺジョンの月 [Vn, Vc] 9’30”
2つの弦楽器が、のびやかに旋律的にかけあっていく作品。素朴な音使いながら、時に激しく展開する。この作品の中に、この作家ならではの表現を見出すべくスコアを精読してみるが、残念ながらそれは見つからなかった。なお、チェロのパートが終始一貫(最低音域も含めて)テノール記号になっているのは、決して読み易くないので推奨できない。また、幾つかの音型からは、楽器の性能への正しい理解がなされていないことが垣間見えた。実演経験を重ねて頂き、実際の響きに接する中で、誠実に楽器の表現を見つめて頂くと良いように思う。
22) ぺジョンの月 [Vn, Vc] 9’30”
2つの弦楽器が、のびやかに旋律的にかけあっていく作品。素朴な音使いながら、時に激しく展開する。この作品の中に、この作家ならではの表現を見出すべくスコアを精読してみるが、残念ながらそれは見つからなかった。なお、チェロのパートが終始一貫(最低音域も含めて)テノール記号になっているのは、決して読み易くないので推奨できない。また、幾つかの音型からは、楽器の性能への正しい理解がなされていないことが垣間見えた。実演経験を重ねて頂き、実際の響きに接する中で、誠実に楽器の表現を見つめて頂くと良いように思う。
23) Suppa, n’est-ce pas ? [Cl(B♭), Sax(S), Vc] 9’
チェロの背後に「忍び」として控えるクラリネットとサクソフォンは、様々なノイズ奏法でチェロとの丁々発止の関係を示していく。やがてその姿が見つかると、音の応酬が激しくなり・・・と、シアトリカルな仕掛けも含む作品だが、スコア全体は、極めて精密な書法で貫かれており、特殊奏法も可能な限りの手法が繰り広げられる。そうなると、奏法カタログ的な内容に堕してしまいがちなところ、この作品は、そうした問題を感じさせない。それは、チェロとの相関関係の中で整合性をもって配列されているからであり、「忍び」という一見チープな仕立ても、この場合、そうした関係を補強する役割として説得力ある設定に映じる。今回の応募作の中には、現代の様々な書法、あらゆる特殊奏法などに精通した上で精密に書き込まれた作品というカテゴリーを見出せるが、その中にあって傑出した存在感を放っている。ただ、設定のチープさが、ともすると安っぽく見えてしまう可能性はある。(ただし審査員自身、自作の中でしばしばそのような設定を敢えて用いているので、この点については肯定的である。)
以上を踏まえ、第1段階の絞り込みを行った。基準については、上記の文中にかなり盛り込まれているが、ここで付言するなら、「今回の出演者による演奏を聴いてみたい」と思えるかどうか、ということを重視している。その結果残ったのは、次の12曲である。
6) ノック [Cl(B♭), Vn, Vc] 10’30”
7) 不完全ボレロ [Cl(B♭), Sax(S/T), Tuba, Vn, Vc, Performer] 11’30”
8) オルツバウⅢ [Vc, 声] 6’
9) クラリネットとヴァイオリンと顔面のための [Cl(B♭), Vc, 顔面] 7’
11) 官能、或いはM.R.氏の墓 [Vn, Performer] 8’
13) 鎖苦速風音族 [Sax(T/Br), 6連ホーン] 7’
15) 戦争中、お父さんの村で、ニウェンホリピがあった [Sax(S/A), 音源再生] 12’
16) 失業 – ルイ・アンドリーセン讃 [E.Gt, Sax(T), Tuba, Vc] 8’30”
17) 誰かさんの産声 [8台の手作りスプリングドラム] 12’
18) プレグナンツ [Vn, Vla, Vc, Cond] 6’30”
20) コピア! [Cond, Vn, Cl(B♭), Sax(T), Gt, Vc, Tuba] 12’
23) Suppa, n’est-ce pas ? [Cl(B♭), Sax(S), Vc] 9’
以上の12曲のメモを読み返し、比較的消極的な要素があるものをピックアップしてみる。
6)は、まだ強固な作家性を感じさせないという点で弱い。
7)は、やはりあまりにも「退屈」な類のものであり、作曲賞の対象として推挙するには至らない。
9)はあまりにも審査員が創作したものの延長としての性質が強く、それであるならもっとこうする、とオリジナル作者としてダメ出しする思いが強く感じられてしまった。
11)は、コメント文中では「リスキーながらやり甲斐はある」と評したが、今一度熟慮してみたところ、恐らくリスクが勝ってしまうのではないかとの思いが強くなった。
15)は、会場のリサーチ不足の問題により今回の選曲として適切性を欠いているし、それを押してまで選曲するにしては、作品の根幹である四股の説得力に疑問が残った。
20)は、今回のメンバーなら興味深い結果を引き出してくれると確信するが、しかし仮にそうだとしても、ここで行われる「4音による即興とその模倣」は、この作品でなければ遂行できない事象ではない。つまりこの作品の「作品性」はどこに存立するのかと考えてみると、弱さがあるように思えた。
以上の6曲をはずした内容を並べてみる。ここで重要なことは、似た内容のものが並ばないということである。それは、コンサートの選曲としては極めて重要であるし、作曲賞の選考という観点でも、同傾向のものの中での優劣ではなく、異なる傾向のものを並べてみることに意義があると考える。また、今回選に漏れた作品群と比して、それぞれの傾向を代表する存在たり得ているかについても再確認が必要だ。
8) 伊藤巧真/オルツバウⅢ [Vc, 声] 6’
13) 梅本佑利/鎖苦速風音族 [Sax(T/Br), 6連ホーン] 7’
16) 山邊光二/失業 – ルイ・アンドリーセン讃 [E.Gt, Sax(T), Tuba, Vc] 8’30”
17) 小栗舞花/誰かさんの産声 [8台の手作りスプリングドラム] 12’
18) 若松聡史/プレグナンツ [Vn, Vla, Vc, Cond] 6’30”
23) 室元拓人/Suppa, n’est-ce pas ? [Cl(B♭), Sax(S), Vc] 9’
8)は、今回の編成規定に於ける「審査員も演奏に参加する」という要素にウエイトを置いた作品であり、こうして並べてみても極めて異色なパフォーマンスを引き出すであろう。また、先ほど選外とした9)と比してその(演奏家としての審査員の)扱いはオリジナルな視点を有している。また、今回複数提出のあった、引用を含む楽曲の中では、その扱いに独自性(ならびにコンセプトとの整合性)がある。
13)は、とにかく規格外の存在感だが、一方で悩ましいのが、審査員自身、この音響とその出自を好ましく感じないと思われる点である。ただ、ここでこのように解釈してみる。「公道で行われれば迷惑行為に認定されることでも、コンサートホールの中に持ち込めば問題なく、むしろ音楽的な行為と言える。」このことを実践するアートだと考えてみれば、すっきりする。コンプライアンスにも抵触しないだろう。
16)は、今回の編成規定の特色を(特殊奏法に頼らずに)活かしつつヴィヴィッド且つアクティヴな音感をハイセンスにまとめた内容で、幾つか提出されたこうしたカテゴリーの他の作品を代表する作品として上演する意義がある。
17)と18)は、拍節感なく淡々と進み、そこで奏でられる音響に耳をそばだてるような鑑賞を求める作品であるという点では共通するが、17)がアンコントローラブルなオブジェクトによる予測不可能なサラウンド音響による作品である一方で、18)は弦楽器のハーモニクスを伴う重弦に徹するという、これまた全く異なる究極的な世界である。その他の様々な仕掛けでも、全く異なる世界を見ていることは明白で、ある種の共通性は、むしろかえって、それぞれの独自性を強調するとすら言える。また、17)が「通常の楽器を用いず、審査員と作曲者も含めた全8名による」編成であること、18)が「作曲者自身も普通の器楽演奏者として参加する」ということもまた、それぞれ他にはないアプローチとなっている。
23)は、通常の意味で最も「よく書けた」作品であり、あらゆる特殊奏法なども掌中におさめた精緻な譜づらだけ見れば、ともすれば他のコンクールでも入賞するかもしれない。ただし、この作品にはシアトリカルな仕立てがなされている意味で、通常のコンクールではかえってその点が足かせになるかもしれない。であるならば、むしろここでこれを入選させない手はなかろうし、本賞としては、逆にそういう部分は肯定的にとらえて然るべきなのだから。
以上、6作品は、それぞれ全く異なる音楽世界を持ち、演奏効果や編成等も、極めてバラエティに富んだ内容となった。(実務的な話だが、演奏所要時間や編成のバランスなどもちょうど良い。)中には賛否が分かれる内容のものもあるだろうが、他のコンクールでは聴かれることのない内容も含む、興味深いラインナップになったのではないかと思う。
なお、今回の場合、提出されたスコアだけでは実演結果を断定的に想像できない。この後、演奏者とも協働しつつ、本番までに修正を施していくことも認めており、その過程でどのように想像以上の出来栄えを引き出すのかによって結果は全く異なってくるであろう。仮に譜面そのものは変えないとしても、一般的な意味でのリハーサル過程でどういう導きがあるかによって、演奏の姿は全く変わっていく。入選者の積極的な音楽作りへの参加を期待したい。